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ハル先生の自己紹介

はじめまして。
ハル先生といいます。

わざわざここまで、プロフィールを見に来てくださって
ありがとうございます!

今回、ぼくの自己紹介をしようと思います。

ふと振り返って見ると、
自分で言うのもなんですが、
波乱万丈でした。

ぼくは現在、海外で学習塾を立ち上げ、黒字化させました。
また、延べ700名以上の子どもたちを指導させてもらい、
最難関の学校にも合格者をだすことができました。

そう聞くと、ほとんどの方が、
なんだよ、勉強教えてて、海外で働いて勝ち組かよ

とか、

はいはい、最初っから頭もよくて学歴も良くて
情報発信でノウハウ呟いて稼ぐパターンね

思うとおもいます。

ですが、情報発信をするのは

波乱万丈のなかで、
ぼくにしか伝えられないこともまた
あるんじゃないかと思うことがあるからです。

幼少期から自己肯定感がひくかったり、
ひどい大学生活を送って親から◯すぞと電話がかかってきたり、
銀行員になったかとおもえばゴミ扱いされ、更にそのままガンになったり、
海外では経営がうまくいかず本社の社長に土下座したり、と

正直上に書いただけでもかなりひどいもんですねw

現在の自分は
・現地法人社長
・十分な収入
・黒字化した会社
・100名以上の生徒
・超有名な方のお子様の家庭教師
・毎日勉強
・毎日成長

充実した毎日を送ることが出来ていますが

少し前は全くそんな事はありませんでした。

とにかく毎日、生きていたくない、
できることなら一刻も早く死んでしまいたい
と思いながら日々を消化する毎日でした。

このプロフィールでは、
そんな生きてても死んでても同じような毎日から、
毎朝ワクワクして目が覚めるようになれるまで
私がどのように人生を切り開き、
いま心から伝えたいことを書いていこうと思います。
もしかしたら過去の自分へのメッセージかもしれません。

いまは海外で成功していますが、
さかのぼるとそのスタートは大きな病気がきっかけでした。
がその前の銀行員時代からぜひお話を聞いてほしいです。


ハル先生就職する

私は大学をみんなより2年遅れて卒業し
やりたいことも特にみつからないなかで、
とりあえず地元帰るか
ぐらいのノリで、
地銀に就職しました。

というよりも地銀1社しか受からず、
そこに行くほかありませんでした。

まわりの友達は、
やれ総合商社だ
やれ大手飲料メーカーだ
やれメガバンだ

といっているなか、
私は
どんな仕事をするかも知らない地銀に、
「とりあえず地元戻れるから」
という理由だけで、就職しました。

これが悪夢の始まりでした。

当時の私は死ぬほどアホだったので、
銀行がお金を貸して利息で稼いでいる
ということすら知りませんでした。

とりあえずノリと勢いで、
飲み会や忘年会は盛り上げて、
仕事の役には全く立たず、
同僚にはゴミ扱いされ
お前は呪われていると
何度もいわれました。

事務のかかりだったのですが、
書類のミスをくりかえし
あっちをなおせばこっちをまちがえ、
こっちをなおせばあっちをまちがう、
という具合で
5ヶ月で当時の上席の堪忍袋の尾が切れ、
別のかかりに飛ばされました。

普通、辞令が本部から来てから
係が移動となるのが慣習でしたが、
ぼくは辞令がでるまえから、
お前はきょうからあっちいけと
上司に言われ、係がえとなりました。
簡単にいうと戦力外通告です。

ほんとに恥ずかしさと情けなさで
死んでしまいたかったです。

新しいかかりは外回りだったので、
足を使ってってなんとかくらいついていたときのことです。

毎年の健康診断がおこなわれました。

銀行員といえばγ(ガンマ)-GTP
これは肝臓の数値で
いわゆる酒の飲み過ぎで
引っかかることが多いのですが、
7人ほどいた先輩方は
1人して例にもれず
γ-GTPで引っかかっていました。

ぼくのはというと、
肺に「異常陰影」と
書いてありました。

先輩に見せたところ、
「うわぁガンだ!ガンが伝染る、あっちいけ!」
といわれてふざけていました。

30代後半の大の大人のふざけ方ではないですねw
でもその先輩とは今も大のなかよしです。

その後再検査となり、
精密検査をしたところ、

マジで癌でした。


ハル先生癌になる

癌宣告されるとどうなるとおもいます?
なんか、ドラマでしか見たことのないシーンで、
笑っちゃうんですよ。
現実味がなさすぎて。
え、20代なかばで、癌になる??って

ただこの時人生で最大のギャンブルに勝ったんです!
そう、それは

ガン保険

です。

当時、というか多分今もですが、
行員は数を稼ぐために自らも保険に入ります。
当時ノリでその年のはじめにガン保険に入っていました。
そして、3ヶ月分の保険料をはらいました。

なんと6000円です。

そしてがんになり、手にしてた金額

150万円です。

オッズ何倍だよ!!

と駅前のセブンイレブンで
保険会社からの入金を確認した後に
一人でツッコミました。

さて、

もとの話に戻ると
ぼくのガンは血液系の癌でした。

その後、闘病生活が始まります。

はじめ癌と聞いたときは、
「あ、おれはここで死ぬんだ。そうかそうか」
となぜか納得していました。

治療が始まると、
抗がん剤がきつすぎて
むしろ薬のせいで死ぬんじゃないかと思いました。

放射線治療もきつくて
喉がやけるようにいたく
食べ物がとおりづらく
当時の2ちゃんねるの
ガンの板に辛いとかきこんでました。

もちろん会社を休んで、
治療を受け続けました。

人にもよると思いますが、
抗がん剤をうつと
熱が40度近く出て、
頭が痛くなって、
体がだるくなって、
胃が気持ち悪くなって、
吐き気がします。

これが1週間おきに4ヶ月続きます。

点滴注射をするのですが、
薬のいろが赤かったので、
赤い物、たとえば赤シートとか
そんなものを見るだけで薬をおもいだし
はいていました。
あと、病院の匂いがもう駄目で、
病院に入った瞬間匂いではいてました。
ご飯のにおいでおえってなって吐いてました。
あのときはとにかく吐いていましたw
吐くのが得意になって、
薬を頭の中にイメージすることにより
ノーハンドで吐けてました。
そう、ゲロリアンの誕生です。

そんな生活をしているとふと思うんです。

なんで人間って生きてるんだろう。
どうせみんな死ぬのに。

ずーっと考えました。
公園のまわりをぐるぐるあるきまわりながら、
夜の街をふらふらはいかいしながら、

その時ふと降りてきたんです。

どうせ死んでしまうなら、
人生楽しみ尽くさないともったいない。
一回終わった人生や。
もう一回好きなこと、挑戦したいことをやったろう。

そんな時、海外での立ち上げを任せたい
とのオファーをいただき海外に行くことになります。


ハル先生海外へ行く

さて癌も寛解し、
海外で塾の立ち上げだー
となって、うきうきしていました。

社長といっしょになって海外へいき
役員になってくれる現地の人を紹介してもらいました。

そのあとうちの社長は
「はいっ」と1000万ぐらいをぼくに放って
「後は任せた」といい、日本に帰ってしまい、
ぼくは何をしたらいいかわからず、ぽつねんと
ホテルの部屋にとりのこされました。

よく思い出してください。

ぼくはそもそも仕事が出来ない銀行員です。
ガンになって、確かになおりました。
ですが、ガンが治ったからと言って
仕事ができるようになったわけではありません。

「ここからどうしたものか…」
とおもい、塾の立ち上げに必要な物を考え始めました。

そうだ、教室が必要だぁ!!(キュピーン)←ひらめいた音

今考えたら当たり前なのですが、
場所もなければ、什器もない、教材もなければ、
そもそも会社が無いのです。

必要なものを一つづつ
少しづつ揃えていって、なんとか教室が出来上がりました。
その間なにをしたら良いかわからなすぎて
海外で一人頼る人がなく寂しすぎて
何度も何度も泣きました。
20代なかばの男がです。

ですが、少しづつ少しすづ
問題を解決し
壁を乗り越えていくたびに
自分の力がパワーアップし
だんだん自分に自信がもてて、
すこしづつ自分のことが好きになれることに
きがつきました。

ですが、そもそも私は自分のことが大嫌いでしたし
マリアナ海溝より自己肯定感は低かったです。
低過ぎて地球の裏側に飛び出すレベルでした。
そもそも、ずっと死にたいと思っているような人間です。
自己肯定感なんか高いわけがありません。

これは幼少期に由来すると考えています。


ハル先生の幼少期

じぶんは九州の田舎で生まれました。
母は、自分が勉強をしてこなかったから、
子供にはその点で苦労をさせまいと、
確か年長ぐらいから塾にぼくをいれました。
その他にも習い事という習い事は全部させられました。

いわゆる教育ママです。
そしてたちの悪いことに、
自分が出来なかったことを
子供に託すタイプの
やばいやつです。

たくさんの習い事をしていましたが、
英会話以外は死ぬほど嫌いでした。
塾・ピアノ・水泳・書道

しかもこの時かよった塾の先生がかけた呪が、
私の青春時代を破壊しました。

ある日、塾でもんだいがとけたこには、
キャンディーをあげるよ!
と先生がいうので、
問題が解けたのでアメをもらいにいきました。

そうしたら同じぐらいに問題がとけたAくんは
「Aくんは顔がよくてかわいいからアメ2個あげる」
といわれ、ぼくはというと
「ごんたろは、ぶちゃいくだから1こあげる」
といわれました。
そのときに、あぁぼくは顔が良くないんだ
ということをはっきと認識しました。
と同時に、顔がわることは良くないことなんだ。
と考えるようになりました。

そんな今考えたらありえないことをいわれつつも
じゃあなぜ他の習い事も続いていたかというと
身長190cm近い死ぬほどでかい
九州男児の親父がいたからです。
これはもう、小学生のぼくにとてはモンスターです。

ぼくは、そんな行儀のいいこどもでもないし
習い事だらけのストレスからあれていました。
荒れていたときはもちろん九州男児で190cm
がやってきて、叱られまくった上に
「ぺちぺちっ」っとやられるわけです。

そりゃ小学生が敵う相手ではありません。
あるときには両方の鼻の穴から血が出ていました。
そんなわけで、さからうことがなかなか難しかったんです。

さらに、ぼくはある日友達が
そろばんをやっているのを見て、

「自分もやってみたい」

と母にいったところ、

「習い事がもういっぱいあるでしょ」

と一蹴されました。

「嫌いなやつはやめたい」

というと

「ダメ」

と一蹴されました。

この時、どうやっても自分のやりたいことは出来ないのだ。
ぼくは親がやらせたいことに従うほかない。
と強烈に刻み込まれました。
それからというもの、なるべく親が決めた、親が望む進路を進み、
みごとに自分で自分のやりたいことがわからない、
自分の進む進路が自分でわからない肉の塊ができたのです。


ハル先生の会社経営

さてこんな、自己肯定感の対局にいるようなやつが、
海外で立ち上げをやるんです。
そんなもんうまくいくわけがありません。

確かに死の淵を経験をして、
チャレンジをしてみたものの、
死にそうな勢いをかりて
海外に来ただけなので、
人間の根本の部分が大きく変わった訳では無いのです。

そもそもそんな自己肯定感ひくひくたろうが
生徒たちに伝えられることなんか無いんです。

ですが、
本社の社長には抜擢してもらった恩があります。
失敗して日本におずおずと帰りたくはない
というプライドもありました。
何度も資金がショートし借り入れを重ねながら、
生徒を指導していきました。

そのなかで、

「自分みたいな人間が生まれてはいけない」
「自分の生徒にはせめてもっと人生楽しんでほしい」

という思いだけを胸に生徒指導をしていました。


ハル先生、国語が大切だと気づく

とにかく自分の教室では、
なんでもかんでも教えないといけませんでした。
生徒に教えようとしても、うまく伝わらなかったり
そもそも生徒の持ってきた問題が解けないことがありました。

これはまずい。
「こんな指導してたら本当に会社が潰れてしまう。」
会社を潰すのは避けたい一心で、
とにかく教材の勉強をしまくりました。
その時に小学生がどうやったら理解できるのかを
生徒の目線にたってとにかく説明する練習をしました。
この時からすこしづつなにかが変わり始めました。

人に説明することができるようになるためには、
自分が100%理解できていないといけません。
ここにはとても大切なポイントがあります。
自分がわかったつもりになっていても
いざ説明しようとすると、言葉に詰まったりするんです。
つまり説明するという行為・人に何かを論理的な飛躍がなく
相手の分かる言葉のレベルで伝えられるようになることは、
とてつもなく国語力がいるんです。

そうなってくると、
自分の国語力の成長にあわせて
だんだん自分の心の動きや、
自分はここで何をしているのか、
自分はここで何をなしたいのか、
なんのために働いているのか
といったことがわかり始めてくるんです。
たぶん普通に国語が出来ているみなさんは
あまりない経験だともうのですが、
自分は国語ができなさすぎて、
奇しくも、海外に来て初めて
国語ができるようになってきました。

じゃあなぜ国語が全くできなかったのか。
これにも理由があります。


国語が出来ないハル先生。

幼少期習い事ばかりやっていたと
先ほどかきました。
その時に唯一好きだったのが、
「英会話」でした。

海外の人に、日本語じゃない言葉で
お話することができるという
魔法のような技に魅了されて
英語だけはとても好きだったし
とてもとくいになっていました。

ですが、英会話の能力というのは
国語力に限定されます。
つまり国語力以上の英語能力は
基本的にみにつきません。
(学習方法によっては可能だが、
その当時の日本で、そのような環境を
用意するのははかなり難しい)

私は、英語以外の習い事はしぬほどいやでした。
ピアノの先生にギター教えてとかいって
先生を困らせたりするレベルです。
塾も嫌いでした。
そんな状態でなまじ国語ができてしまったので、
母は安心して、
「この子は英語ができるからいいや」
ぐらいに思っていたのだともいます。
算数は人並みだったので、
ひどい国語の点数には目をつぶっていました。

なので、国語ができないごんたろは、
英語を日本語に訳したところで、全く意味がわからないので
英語もどんどん友達に追い抜かされていくことになります。
ただ発音だけは良かったですw


熱血指導、ハル先生

そんなことがあって、
海外ということもあり英語教育熱心な親御さんも多い中

「英語なんかやってる場合じゃねぇ
国語しっかり子どもたちに教えないと!
ちゃんと自分で自分のことを考えられるようになってほしい
ちゃんと自分の気持を他の人に言葉で伝えられるようになってほしい」

そんな一心で勉強しまくりました。

そうしたところ
運営も軌道に乗り始め、
人もどんどん集まり始め、
いつしか本社にお金を借りることもなくなり
会社が回るようになってきました。

いつしか人をもっとやとい
内部の仕組みも充実させ
より良い指導ができるような
会社ができてきたんです。

その時にはっとしました。

マリアナ海溝より深く低く、
地球の裏側に飛び出るぐらいまで下がっていた自己肯定感が
富士山ぐらいまでに高くなり、
おやごさんから感謝のことばをもらい、
こどもたちからもよろこんでもらい、
自分のことがちゃんとすきになれて、
毎日が充実した1日になっていたんです。

あれだけ毎日死んでしまいたかった幼少期
いつ死んでもまぁ良いやと思っていた日々は
もうそこにはありませんでした。


ハル先生が伝えたいこと

人は人をよろこばせること
人のためになることで、
心からの喜びが得られます。
それだけじゃなくて、
自分の人生も輝き始めます。

正直、自分を大切にするから
他の人の役に立てるのか
他の人の役に立てるから
自分のことが大切にできるようになるのか
そんなのは鶏と玉子だし、
どっちでも良いです。

ですが、一つだけ言いたいのは
しぬほどひどい状態からでも
絶対に復活できるということです。
もう一度人生を楽しむことができるということです。
そしてそれはもちろん自分を大切にし、
人を大切にするからこそなせることなんです。

人は本当に死んでしまいます。
自分もかなり死に近い経験をしたと思います。
だからこと、月並な表現になってしまうけど
今日という一日をわくわくしながら楽しく生きたいなと思うし
みんなにもそうあってほしいなと思うんです。
そうすれは日本は、世界はもっともっと良くなると思います。

これがハル先生が伝えたいことです。

もしここまで読んでくれた人がいたとしたら
本当にありがとうございます。

なにか感じることや思うことがあったら
ぜひDMくださいね!
待ってます。

ハル先生

追記:父母のことを書きましたが今ではとっても仲良しです!
もうハードフィーリングはありません。
むしろ、ここまで育ててくれて感謝の気持でいっぱいです。

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この記事を書いた人

東南アジア塾経営スタート9年目

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